私は現在リャザン国立大学外国語学部東洋言語学科で日本語教師として働いています。
大学で働き始めたのは2012年9月で、かれこれ日本語教師歴は6年。
どうして日本語教師になったの?
当ブログをご覧くださってる方の中には、こんな疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
そこで、本日は私が日本語教師を目指したきっかけをご紹介します。
ロシアとは一切関係がありませんが、日本語教師を目指す方々へ参考になれば幸いです。
現役日本語教師が語る:私が選んだ理由と道のり
きっかけは大学時代のドイツ留学
私はもともと日本の大学でドイツ語を専攻していました。
そして、2007年3月から1年間大学を休学しドイツのデュースブルク=エッセンという、ノルトライン=ヴェストファーレン州にある大学に1年間交換留学をしました。
そこで出会った現地の日本語を勉強している学生さんたち。
彼らとの出会いが私の現在の道に進むきっかけになりました。
現地の日本語学習者とタンデム
現地のドイツ人と大学の喫茶店でタンデムをしていたときです。
何か質問があったら聞いてね!!
と張り切っていた私。
日本人の私ならきっとタンデムパートナーの疑問や質問に答えられる。
心の中でそんなことを思っていました。
日本語の文法に関する質問に答えられなかった
…が、そんな自信はすぐに打ち砕かれました。
どんな質問だったかはよく覚えていないんですが、確か日本語の文法に関する質問だったと思います。
ねえねえ、この文法とこの文法の違いって何?すっごく意味が似てるから使い分けがよくわからなんだ。
一瞬凍りつく私。
日本語が母語の人同士ならこんな質問まずしない。
う~ん…。ごめん、ちょっとよくわからないや。
突然のカウンターパンチ。
日本人母語話者なのに全く手も足も出ない。恥ずかしさと悔しさ、そしてタンデムパートナーへの申し訳ない気持ちが一気にこみ上げる。
大丈夫大丈夫!僕だってドイツ語の文法について質問されたら、困るときあるから(笑)難しいよね。
知り合いは満面の笑みでフォローをしてくれましたが、私の内心は穏やかではありませんでした。
第2外国語としての日本語
ここではじめて第2外国語としての日本語について真剣に考えるようになったのです。
日本人に国語を教えるのと外国人に日本語を教えるのって全然違う。日本語教師はどのように教えているんだろう…。
正直、私は国語があまり得意なほうではありませんでした。むしろ、苦手でした。
そんな私でしたが、留学先で日本語学習者と交流していくうちに自然と第2外国語としての日本語に惹かれていったのです。
帰国後、大学で日本語教員養成課程を受講
日本に帰国したのは、1年後の2008年の3月。4月から4年生になりました。
本来であれば、3年生の後半から就活が始まり、早い人なら就職活動が終わってる時期です。
私は日本語教師になりたい!!!
やりたいと思ったらすぐに行動を起こす…これが私。
幸いにも、私が通っていた大学では日本語教員養成課程(主専攻・副専攻)があったので、すぐさま学生課に駆け込みました。
う~ん…。副専攻なら卒業までに26単位必要なので、修了できないことはないです。ただし、1つでも単位落としたらその時点でアウトですよ。就活もあるだろうし。
それでもかまいません!!フル単で毎日勉強して、就活も平行してやります!!
ということで、日本語教員養成課程を副専攻として受講し、なんとか卒業までの残り1年間で26単位と1ヵ月の教育実習を終え何とか無事修了。
卒業後はもちろん日本語教師になるつもりでいました。
夏の教育実習で言われた一言
「日本語教師はいつでも始められる」
日本語教師のたまごを目の前にして放った一言。
卒業後、すぐに日本語教師として働こうと思っていた私にとってまさに青天の霹靂でした。
「日本語教師にはいつでもなれるのよ」
「一旦社会へ出なさい。そして、社会経験・常識を身につけなさい。それから考えたって遅くはないから」
私は日本語教師として第一線で働かれている大先輩のことばを真剣に受け止め、一般企業に就職することにしました。
一般企業に就職
2009年3月に無事大学を卒業した私は、4月からインテリア業界で有名な企業に就職、3年間勤めました。
当時全国の店舗の中でも売り上げナンバーワンを誇っていた店舗の売り場に配属された私は、とにかく与えられた仕事をこなす日々を送っていました。
いい仲間に恵まれ、楽しい日々を過ごしていました。
…が、頭のどこかにいつもこんな思いがありました。
で自分の描いていた世界とは違う…。
転勤が転機に?
当時東京にある店舗に勤めていた私でしたが、配属3年目にして転勤が訪れました。
次は千葉にある店舗に行ってくれ。
もともと配転教育に重点を置いていた企業だったので、売り場担当者も2~3年で他の店舗に移されるのは普通でした。
しかし、結果これが私の人生のターニングポイントとなったのです。
お世話になった教育実習先と目と鼻の先
なんと、新天地が大学時代にお世話になった教育実習先のすぐ近くだったのです。
これは何かの縁かもしれない。
そう感じた私でしたが、教育実習でお世話になったのは3年前。
あのときお世話になった先生がいるかもわからない状態。
距離は近くなったんですが、なかなか足を運べずにいました。
ソーシャルネットワーキングで実習先の先生と再会
そんな気持ちをFacebookで書いたところ、なんと大学時代に教育実習でお世話になった先生が偶然私の投稿を読んで、声をかけてくれたのです。
全く予想もしていなかった展開だったので、本当に驚いてしまいました。
カルメキアかリャザンかペルミ
久しぶりの日本語学校。実習以来だったので、3年ぶりでした。
先生の話によると、国内での就職先斡旋は難しいが、海外なら日本語教師を必要としている教育機関がたくさんあるということ。
そこで紹介されたのが、カルメキア、リャザン、ペルミでした。
え、それって…どこにあるんですか?
恥ずかしながら全く検討もつきませんでした。
地図で位置を確認し、条件なども詳細を教えてもらい私が決めた行き先はリャザン。
是非リャザンに行かせてください。
今後の不安はありましたが、念願の夢が叶うということもありほぼ即決でした。
ちなみに、リャザンにした理由はモスクワから一番近かったから。
こうして、ロシアとは縁もゆかりもなかった私は単身リャザンに乗り込むことになったのです。
ちなみに、ロシア語はキリル文字の存在すら知りませんでした(笑)
そして、現在
当時赴任したてのころは、3年間働いたら帰国するか別の国で日本語教師として経験を積もうと思ってました。
しかし、現地で現夫と知り合いほぼ永住が決定しました。
2012年9月からリャザン国立大学で働き始め、今年で6年目。
途中必要性を感じ、勤め先の大学院に進学し…といろいろありましたが、現在は無事卒業し常勤講師として日々悪戦苦闘しながら日本語教育に携わっています。
まとめ
いかがでしたか。
本日は私が日本語教師を選んだきっかけと現在までの軌跡をダイジェストにご紹介しました。
現在、日本語教師を目指されているの参考になれば嬉しいです。
また次お会いしましょう!
Пока пока!
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